


1997年にダイキ株式会社(ダイキアクシスの前身)によって設立された日本初のプロビーチバレーチーム。元バレーボール日本代表の佐伯美香選手(愛媛県松山市出身)を中心に、愛媛出身の女子選手で結成。2000年シドニー、2004年アテネ、2008年北京とオリンピック3 大会連続出場を果たす。2009年佐伯選手の引退に伴い解散。12年の活動に終止符を打った。
前編 はじまりの物語 ~愛媛から世界を目指す! ダイキヒメッツの挑戦~
後編 もう一度、愛媛から世界へ! ~マドンナカップとひめっこビーチスクール~
2026年夏、女子高校生ビーチバレーの日本一決定戦「マドンナカップin伊予市」第30回記念大会が、愛媛県伊予市で開催されました。各都道府県の予選を勝ち抜いた47チームと開催地代表1チームの全48チームのペアが出場し、会場の五色姫海浜公園を舞台に、太陽と海と潮風の中、熱戦が繰り広げられました。
この大会の創設に関わったのが、ダイキアクシスグループ創業者の故·大亀孝裕前会長です。1997年、大亀前会長の提案により、初の高校女子全国大会が愛媛で開催されました。第1回、第2回は松山市の城山公園で、第3回からは伊予市·五色姫海浜公園ビーチバレーコートに会場を移し、以来ビーチバレー女子の夏の甲子園として毎年開催されています。
今年で第30回を迎えたマドンナカップですが、そもそもなぜ愛媛でビーチバレーの全国大会が開かれることになったのか。そのはじまりは、同じく30年前、愛媛に誕生した日本初のプロビーチバレーチーム「ダイキヒメッツ」にあります。その結成からマドンナカップにつながる物語を、元ダイキヒメッツの佐伯美香さんに伺いました。
聞き手(以下Q):ダイキヒメッツは「ビーチバレーで五輪の表彰台に立ちたい」という佐伯選手の強い思いに賛同してダイキ株式会社(当時)で結成されました。なぜビーチバレーでオリンピックを目指そうと思ったのか、当時の思いからお聞かせください。
佐伯:1996年にインドアバレーボールの日本代表として初めて出場したアトランタ五輪では、思うような結果を残せず、悔しさだけが残りました。そして4年後のシドニーを考えた時、当時の日本代表はアトランタ五輪の予選敗退の結果を受けて選手の大型化と若返りを図っていました。私はインドアでは背が高いほうではないので、これでは出場は厳しいなと。
一方、ビーチバレーはユニチカに所属している時に経験していて、いずれ本格的にやりたいなという気持ちも自分の中にはあったんです。ちょうどアトランタ五輪から正式種目になったこともあり、もう一度出るならビーチかなと転向を考えました。
Q:ダイキとはどのような経緯でプロ契約に至ったのですか。
佐伯:当時ビーチバレーは、この先どうなるか分からないようなマイナーなスポーツでした。ほとんどの人がバイトをしながらやっていたので、私もそれを覚悟して、湘南か平塚か、神奈川県のどこかに住まいを構えてバイトをしながらやる心づもりでスタートしました。
その時にインドアバレーでお世話になっていた地元の方に「実はビーチバレーで五輪を目指したいと思っているんです」というお話をしたら、ダイキの大亀会長(孝裕前会長)をご紹介いただいて。全面的にサポートしてくれることになりました。

Q:当時、大亀会長は佐伯さんに会われた時の印象を「シドニー五輪にかける意思は大変強く、私はまさに彼女に圧倒された」と語っています。大亀会長の印象はどうでしたか。
佐伯:とにかく自分の思いを伝えるのに精一杯で、その時すぐにお返事をいただいたかどうかも忘れてしまったのですが、ひとつ印象に残つているのは、初めてお会いした時にすでに会長は辞めた後のことを話されていて「引退後も指導者として活動するように」と言われたんです。「今その話する?」と正直驚きましたが、それは強く印象に残っています。
Q:その時からすでにマドンナカップにつながるジュニアの養成を考えていたのかもしれませんね。一方、ダイキヒメッツは、チームとしては3大会連続、佐伯さん自身もシドニー、北京と2度の五輪に出場され、シドニーでは表彰台まであと一歩という4位入賞を果たしました。当時を振り返って、ダイキのサポートはどうでしたか。
佐伯:「やるからには本格的なチームをつくる」と当時総合企画部長だった大龜裕会長をゼネラルマネージャーに付けていただき、全面的にバックアップしていただきました。なおかつ専用練習場として、松山市内に日本初の室内ビーチコートまで作っていただいて。
今考えると30年前にあのコートを作るという発想自体もすごいなと思います。そうやってサポートしていただき、なおかつ自分が生まれ育った愛媛でやらせていただけることになり、それがあったからこそオリンピックにも行けたと本当に感謝しています。
Q:ダイキヒメッツでの12年の活動を終え、プロ引退後は、インドアのバレー教室をはじめ、松山東雲女子大学のバレー部コーチ、ビーチバレー部のコーチなど、まさに大亀前会長の言葉どおり指導者として幅広く活動されています。どのような思いで取り組まれていますか。
佐伯:室内コートもそうですし、ダイキヒメッツからオリンピアンが4人も輩出され、今も指導者として活動しています。この環境は日本一だと思いますし、なおかつ、あのヒメッツのコートを残していただいたので、あそこでしっかり活動しながら、世界を目指していく選手を育てていきたいという思いです。
Q:ヒメッツ解散後、コートは一時期、改装されて「ダイキジュニアゴルフスクール」になっていましたよね。佐伯さんもダイキを退社し、2010年に松山東雲女子大学のバレーボール部のコーチに就任されてからは、拠点を東雲に移されていました。
佐伯:引退後は一度ダイキを離れていたのですが、東雲女子大のコーチをしていた時に村上礼華(現在ダイキアクシス所属のビーチバレー選手)に出会って。村上はもともと2015年に東雲にビーチ部をつくった時の1期生なんです。その前年にマドンナカップでいい選手を探していたら目に留まって、兵庫の淡路から東雲に来てもらいました。
その村上が卒業後もビーチバレーを続けていきたいと言うので、当時ダイキアクシスの社長だった裕会長に「プロとして活動させたい選手がいるので、またサポートをお願いします」とお願いしたのが再開のきっかけでした。

Q:そのサポートが現在の「ダイキアクシスビーチバレーチーム」につながっているんですね。その時に室内コートも復活したのですか。
佐伯:コートは少し前です。2017年のえひめ国体からビーチバレーが正式種目になるというので、当時 DCMダイキの会長だった大亀孝裕会長に「もう一度、あそこの砂を復活させてください」とお願いに行ったんです。それでえひめ国体の1年前か半年前に室内ビーチコートが復活しました。
本当にあのコートがあるのとないのとでは全然違うんです。特に若い世代、学校に通っている選手を教えるには夕方からしができないので、夜に室内で練習できる環境がどうしても必要になります。今マドンナカップに出ている愛媛の高校生たちも、あそこで練習しているんですよ。平日の夜、週に1、2回は来て練習しています。
Q:マドンナカップのお話が出たところで、マドンナカップへの思いも間かせてください。
佐伯:今年で30年になり、この大会を経て今世界で活躍している選手も出てきています。村上などはまさにそうですが、やがてそこからオリンピアンが誕生するかもしれません。
また、国体(現·国スポ)が2019年から少年種別(中学3年生から高校生が対象)に変更されたことにより、ビーチバレーが若い世代から取り組む競技になってきています。そういった選手たちにとって、マドンナカップはまさに野球でいう甲子園だと思いますし、私自身は「女子ビーチバレーの聖地」だと思っています。

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